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2019年度 武蔵中学過去問【社会】解説

〔とある漂流民の一生に関するリード文〕
(1)廻船の航路に関する問いに答えなさい。
①御前崎から江戸までの海岸線を描きなさい(★★)

*下図参照。

自分なりには上手く描けた方かなと(^^;
御前崎から駿河湾⇒伊豆半島⇒相模湾⇒三浦半島⇒東京湾の存在を確認できれば正解かと。
地図帳で確認したら、大島は御前崎や伊豆半島の南端よりも北にあったよ(;^ω^)


廻船が難破する場所は、静岡県沖付近が多く、季節は冬が多かったようです。
なぜでしょうか(★★★★)
北西からの季節風が若狭湾から濃尾平野や伊勢湾を通り、
静岡県沖に強い西風をもたらすことで、船が沈みやすい海域だから。

*冬の太平洋側+船の難破→季節風(からっ風)。
キーワードである、季節風さえ示せば及第点はもらえるかな(^^;
静岡県沖の西風は遠江(とおとうみ)のからっ風といい、
実はけっこう奥深い地理的な要因が潜んでいる。

冬の気圧配置は西高東低。
シベリア方面から日本海の水蒸気を含んだ寒気が日本列島の山脈にぶつかることで、
冬の日本海側では大雪が降るが、場所によっては太平洋側にスッと吹き抜ける場所がある。

Gigazineより、立体日本地図。
若狭湾~琵琶湖~濃尾平野~伊勢湾のところだけ山々が低い
この壁の薄さが吹き抜けスポット。

小学生のための社会特訓より。
山地の地図で確認すると、やはり目ぼしい山脈がない。
日本海から太平洋に抜ける距離も比較的短い。

遠州のからっ風は静岡県沖だけでなく、関東南部まで伸びるそうだ。
これは3000m級の山がそびえ立つ日本アルプスが北西からの季節風をせきとめており、
反対側の無風地帯を埋めるような形で西側から遠州のからっ風がまわりこんで流入するから。
日本の真ん中らへんに列島を縦断する風の通り道があるということだが、
地理力がよほど高くないと高校生でも知らないと思われる(^^;

また、愛知の渥美半島~静岡県の御前崎は遠州灘えんしゅうなだ)といい、砂浜海岸が続いている。
これは海岸に沿って潮の流れが速く、海流に運搬された砂が海岸に堆積されてできる。
遠州灘が海の難所といわれたもう1つの原因は、流れの強い海流と荒波にある
とは波が荒く、流れが速い海域を指す。遠州灘には緊急避難用の港もなかったようだ)
遠州灘にそそぐ天竜川は上流にあるダムの影響から河口部での土砂堆積量が減り、
海流による侵食作用が上回ることで、海岸線が後退しているという(海岸侵食)。
海流の浸食作用によって海岸線が変動することは覚えておこう。


(3)
日本の廻船は、国内流通向きのいろいろな特徴を持っていました。
図1で、日本の廻船とヨーロッパの外洋航海用の船を比較して、日本の廻船の構造上の特徴を指摘し、それが国内流通向きと考えられる理由を説明しなさい(★★★★★)

洋船と比べて日本の廻船は船底が狭いため、船があまり沈まずに浅瀬でも航海することができ、
また、底の中央部が平らなので、船を陸揚げして荷卸しすることもできるから。

*難しい:;(∩´_`∩);:
和船の構造は当然習わないので、図を観察して推測するしかない。
『国内流通向き』をどう解釈するかが鍵となる。

和船の構造は、当時のグローバルスタンダートから離れていたらしい。
香辛料を得るためにヨーロッパからはるばる東南アジアへ進出したように、
洋船は外洋を横切る長距離輸送に向いており、頑丈な構造であった。
一方、日本は海洋国家であるにも関わらず、鎖国体制ゆえに近海での海上輸送が多かった。

左大臣ドットコムより。
西廻り航路の開拓に尽力した河村瑞賢(ずいけん)の功績で、
山形の酒田から大阪を経由し、江戸に向かう海運が開かれる。
東廻り航路も西廻り航路も海岸からそれほど離れない

『国内流通向き』の船は外洋ではなく、日本の近場を航海した
ここで”水深”に発想を飛ばせれば正解に近づける(^^;

港は水深が深い方が都合が良い
なぜなら、貿易船のような大型の船は深く沈むので、浅瀬だと乗り上げてしまうから。

洋船の船底は四角いので、ずっしりと下に(海に)沈む。
だから、航行中の船の姿勢が安定するので、嵐に遭遇してもある程度は耐えられる。
対して、和船はボートのように船底が狭くなっており、洋船と比べてあまり沈まない。
だから、浅瀬の航海にも対応できるので、『国内流通向き』となる。

また、横断面図をみると、和船の中央部分の底が平らになっている。
船にロープをくくりつけて引けば、浜辺に船を引き揚げることができるので、
船の積荷が下ろしやすくなる。
洋船は横断面のアウトラインが丸みを帯びており、真ん中に線が走っているので、
左右のバランスを保つのに優れているが、陸に揚げると横転してしまう。

帆柱が1本であることに注目した人もいたかもしれない。
一本マストも和船の特徴なのだが、これが『国内流通向き』につなげられるかは微妙なところ。。
帆柱が3本もある洋船より1本の帆の操作で船の進路を決めることができるので、
軽量で小回りが利きそうではあるが、帆布が一枚だけだと強引に航路を変えることができず、
かえって和船の方が小回りが利かなかったそうだ(^^;
しかも、一枚の帆で船を支えるので耐久性が弱く、強風を受けると帆柱が折れるのだとか。。

ちなみに、帆船というと風下にしかいけないような気がするが、
実は(ガソリンエンジンに頼らず)風の力のみで風上にさかのぼることもできる。
物理学でいう力の分解です。詳しくはコチラをどうぞ→
2017柏陽高校

@河川と水深の関係@
日本の河川は傾斜が急なので、河口付近に土砂が堆積されやすい。
一方、海外では傾斜の緩やかさから、河口付近への土砂の流入が少ない河川がある。
こうしたところで海面の上昇や土地の隆起が起こると、ラッパ状の入り江が形成される。
地理学では、これをエスチュアリーという。

北アメリカ大陸北東部、アメリカとカナダの国境付近を流れるセントローレンス川
赤い印がある、ラッパ状の入り江がエスチュアリー。
エスチュアリーは水深が深いので港として都合がよい。
他にも、氷河の浸食作用で深くえぐられたフィヨルドでも港町がみられるところがある。

@菱垣廻船と樽廻船@
江戸の海運でよくでてくる2つの廻船。
はじめは菱垣(ひがき)廻船が日用物資を上方から江戸に流していたそうだが、
灘の清酒を輸送していた樽(たる)廻船は運賃が安く、スピードがあったため、
次第に菱垣廻船を優越するようになる。

(4)19世紀の日本とイギリスやアメリカとの関係に関する以下の問いに答えなさい。
①日本からの漂流民を政治的に利用しようというイギリスやアメリカの意図は、
どのようなものだったと考えられますか(★★)
漂流民の保護と返還を見返りに、日本に開国をせまるというもの。
*内容は察しやすいかと。
鎖国をやってた日本に通商や布教の許可を求めにきた。

@異国船打払令@
ロシアからラクスマンやレザノフ、フェートン号事件以降、イギリス船が往来するなど、
外国船の来航に対処するために異国船打払令が出される。
これに基づき、漂流民を届けにきたアメリカ船のモリソン号を砲撃したので(モリソン号事件)、
蘭学者の高野長英が『戊戌ぼじゅつ)夢物語』を、渡辺崋山が『慎機論』を著して批判、
幕府は彼らを処罰してしまう(蛮社の獄)。
アヘン戦争で清が列強に敗北した知らせが耳に入ると、異国船打払令は廃止された。

②19世紀半ばにおける度重なる交渉の結果、
1858年に日本がイギリスやアメリカなど欧米5か国との間に結んだ条約は何ですか(★★★★)
安政の五カ国条約
*日米修好通商条約は有名だが、この名称は小学生で習うのだろうか・・?
アメリカと結んだ不平等条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ。
そのときの元号が安政だったので、安政の五カ国条約とまとめてよばれる。

@日仏和親条約がない@
ペリーと交わした日米和親条約と同様の条約を英・露・蘭と結んだが、
こちらでは修好通商条約と違い、フランスが登場しない・・。

この点、ツイッターで幕末史にお詳しいちかさん(@lanlan1858)にお伺いしました。
ちかさんが仰るには、イギリスが和親条約を結ぶ予定がなかったことが関係するそうです。
アメリカが日本に使節を派遣することを知ったロシアは日露和親条約を結びます。
オランダは出島を通じた外交ルートがあったので同じく締結。
一方、イギリスはクリミア戦争(1853-56)でロシア艦を探して長崎に入港したときに、
紆余曲折を経て当初の予定になかった日英和親条約を結ぶ運びになりました。
翌年、イギリス艦隊とともに長崎にきたフランスはイギリスと同様の扱いを求め、
これに対し、日本側(長崎奉行)はフランス側に和親条約の締結を提示するのですが、
フランスは条約締結にかかる全権を与えられていないことを理由に拒否しました。
そもそも日英和親条約は通訳の誤訳から双方の意思疎通に支障をきたし、
誤解が生まれて結ばれることになったようです。

フランス艦隊はイギリス艦隊と行動をともにしている場合が多く、
和親条約がなくても、船の修繕や病人の療養はイギリス艦隊の司令官の後押しがあれば
日本は断ることが難しいので、何とかなるだろうとの思いもあったそうです。

当時の英仏は、日本の開国よりもクリミア戦争に対する勝利が優先事項にあり、
その後のアロー号事件(1856-)でも英仏は共同して清国と戦争をします。
天津条約で講和が結ばれた流れで日本に向かうのですが、
英仏の動きを知ったアメリカ総領事のハリスは修好通商条約への調印を日本に迫りました。


(6)
19世紀後半から20世紀前半にかけて、日本から国外にかなりの数の移民が行われました。
南アメリカ諸国のなかで、日本人が最も多く移民した国を答えなさい(★)
ブラジル
*ブラジルに日系人が多い理由。その前はハワイへの移民が多かった。
いずれもプランテーション農園の労働力確保が目的。

(7)
第2次世界大戦後の日本からの出国者数は、1970年代以降にそれまで以上のペースで増加するようになりました。それはなぜか、考えられる理由を1つあげ、簡単に説明しなさい(★★★)
固定相場制から変動相場制に移行されたことで急激な円高傾向となり、
旅行者に有利な状況になったから。

*70年代に起きた出来事と出国者数の増加を結びつける。
為替相場の話で円高は輸入産業や旅行者に有利になると聞いたことはあるはず。
それが頭によぎれば、正解にたどりつける。

戦後のブレトン=ウッズ体制戦後の国際金融秩序)では1ドル=360円の固定相場制であったが、
60年代に入るとアメリカ国内で深刻な財政赤字と貿易赤字が生じ、
1971年、ニクソン大統領が金とドルの兌換(だかん;交換)停止を発表した(ニクソンショック)。
各国はドルを切り下げて変動相場制に移行し、日本では急激な円高が起きた。

ウィキより。360円がいかに無理だったかわかる(;^ω^)
ニクソンショック後も固定相場制の維持を図ろうとスミソニアン協定がなされる。
(上のグラフで1ドル=360円→308円に切り下げられたところ)
しかし、結局これもうまくいかず、早々と変動相場制に代わり、
1976年のキングストン合意で正式に変動相場制が国際的に追認される。

総務省統計局より。
高度経済成長期まっただなかの60年代では出国者数はそれほど増えていないが、
変動相場で円高となる70年代から徐々に増え始めている。
とくに1985年のプラザ合意によるドル高是正で円安傾向がさらに加速したので、
それに伴い出国者数がうなぎ上りになっている。
ちなみに、2003年にガクッと下がっているのはイラク戦争とSRAS(サーズ;感染症)の影響。

また、70年にボーイング747(ジャンボ機)の初就航されたことも
海外旅行ブームに火をつけた要因だそうだ。

(8)
短期的な旅行ではない、国境を越える人間の移動は、近年も世界の各地で発生し、議論を引き起こす場合があります。あなたの知っている例を紹介し、説明しなさい(★★★★)
解説参照
*短期的な旅行ではない、国境を超える人の移動に関する記述問題。

出稼ぎ労働者、移民、難民。
シリア難民→ヨーロッパ諸国、南米→アメリカへの不法移民、ミャンマーのロヒンギャ難民。
去年、日本で可決された改正出入国管理法による外国人労働者の受け入れ。

いずれもおさえておくべき時事だが、
設問が”紹介と説明”なので、どこをどう膨らませて記述するかも査定に入る。
なぜその人たちは移動するのか。裏にはある背景や事情は何なのか。
移動先の国では賛否がある。受け入れにあたってのメリット・デメリットは何か。
具体的にどのような対策・施策を講じているか。現状や動向を述べる。
これから何をすべきか、どう変わっていくのか、私見を書くのも良い。
難関中志望者は有名な時事をある程度語れるようにしておきたい( `ー´)
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